《説文入門》のための、人名索引型メモ

(『説文入門』を讀みかえすための人名メモ)

頼惟勤先生は、 讀んでいくうちに分るのが良くて、 索引で引けば分るという風に考えることではないもの、 と仰有いまして、
その通りと思います。
(そこのことは、そもそも、 このファイルに竝んでいる人名を瞻めていると、 成程と得心がいく所でもあります。)
ところが、 覺えも薄い私は、 ちょくちょく用事でこんがらかる時に 御世話に預かりたいため、 人名だけ頁次を拔いておいたわけです。
これも、 修士論文前に傚錢氏荅問(せんしとうもんにならえ・御名前) サインを頂くことになった 御本に 預め固有名詞の色線や小口への印しを引いてしまった失禮を、 悋しんでのことですが、
結局、更に、 御言葉にまで失禮を重ねて、 申譯ないことでもあるファイルです。
(「目次」と合わせて見ると、 少し目安が出來ると思います。)


【あ】
哀公
090
アダムス
294
阿辻哲次
125
【い】
石塚龍麿
310
【う】
【え】
慧琳
011
袁鈞
058
【お】
王昶
027
王應麟
036
王國維
040・061
王勝昌
042
王肅
059・207
王念孫
135・195・295
王力
195・293・308
王陽明
289
王羲之
100
汪憲
031
大宮誠
126
大矢透
195
岡井愼悟
056
小川環樹
040
岡本况齋(保孝)
092・172・204
尾崎雄二郎
051
小畑詩山(行簡)
079・221

【か】
何休
153
300
霍治書(清甫)
096
岳珂
079
額勤布
027
嘉慶帝
158
和帝
003
狩谷液齋(津輕屋三右衞門・望之)
092
153
カールグレン
308
ガレ
295
桓公
251
顏師古
152
神田喜一郎
010・032
【き】
031
僖公
091
032
許愼(叔重)
003・008・159
許世瑛
114
許沖
004
【く】
黒川(春村?)
206
倉石武四郎
025・033・077・086・094・106・114・120・162・214・279・314
公羊
251
空海
010・056
倉田淳之助
028
【け】
062
惠棟
061
桂馥
082
阮元
054・066・079・172
玄應
011・160
嚴學
024
縣子
203
阮長生
079
乾隆
084・281
【こ】
062
顧野王
011・054
225・237
康熙
022
江憲
031
010・116・132・135・149・193・214
江啓淑
031
黄公紹
033
高誘
058
近藤光男
068
呉省欽
099
顧炎武
116・223
洪榜
134
黄侃(季剛)
134・293・303・308
江永(愼修)
157・237・249
孔廣森
282・294
光緒

【さ】
185
左氏
090
崔覲
068
蔡元培
135
【し】
司馬遷
004
朱文藻
031
朱駿聲
082・103・123・129
沈兼士
135
朱子
250
026
018
060
襄公
091
肅宗
009
周祖謨
010・038
邵懿辰
049
章懷太子
011
章炳麟
134・195
009・013
鄭玄
059・092・207
昭公
091
徐鉉
012・019
徐乃昌
040
087
111
任大椿
052
【す】
【せ】
成公
203
錢大
292・313
【そ】
曹植
185
楚子
203
022
孫殿起
077・126
孫炎
153
孫星衍
027

【た】
代宗
009
戴震
106・157・160・204・231
高橋由利子
125
段玉裁
025・035・037・058・064
【ち】
千熊長彦
314
[鄭玄(ぢゃうげん)は、【し】を見て下さい。]
チャリス
295
鈕樹玉
084
082
趙鈞
張次立
018・035
張世祿
018
[沈〜は、【し】を見て下さい。]
陳垣
145・158
陳相
203
陳第
224・225
陳壽祺
058
陳昌治
028
【つ】
【て】
[鄭玄(ぢゃうげん)は、【し】を見て下さい。]
丁福保
081
185
定公
203・203
鄭庠
237
【と】
滕文公
203
杜預
092
戸川芳郎
081
トンボー
295
陶淵明
060

【な】
内藤湖南
094
中田祝夫
202
長澤規矩也
008・040・072
【に】
【ぬ】
【ね】
【の】

【は】
橋本進吉
310
班固
004
伯州犂
203
萬承起
084
ハーシェル
294
馬俊良
031
【ひ】
皮錫瑞
058
【ふ】
武公
091
文王
090
伏生
060
馮桂芬
042・075・085
福田襄之助
051
【へ】
【ほ】
穆公
202

【ま】
(萬葉假名について)
104・310−314
【み】
宮崎市定
314
【む】
【め】
【も】
毛晉
026
026
孟子
101・203
諸橋轍次
062

【や】
山井昆崙
山梨稻川
116
【い】
[あ行の【い】を見て下さい。]
【ゆ】
熊忠
033
【え】
[枝〜・江〜なども、あ行の【え】を見て下さい。]
[そのほかのいぇ(ye)は、あ行の【い】を見て下さい。]
【よ】
楊雄
004

【ら】
【り】
李善
011
食其
092
李陽冰
009・019・021
李舟
040
(仁甫)
045
陸機
060
呂忱
052
劉承幹
054
陸心源
027
林明波
125
陸徳明
225
【る】
ルヴィリエ
294
【れ】
黎經誥
008
黎永椿
049
【ろ】
ローエル
295
[呂〜は、【り】を見て下さい。]

【わ】
[王〜・汪〜なども、【お】を見て下さい。]
[和帝は、【か】を見て下さい。]
【ゐ】
[【い】を見て下さい。]
【う】
[あ行の【う】を見て下さい。]
【ゑ】
[慧琳・袁鈞なども、【え】を見て下さい。]
【を】
[岡井・尾崎・小畑なども、【お】を見て下さい。]

【ん】
追加:
1「小川環樹」の拔けを氣懸りによりチェックするに至り、翌2008.04.25.金に、書内で指定されてゐるビブリア75の該頁を某大学附属図書館二階にてコピーさせて頂いたが、一見したくて二十年經過したものなので、ここに打鍵して閲讀・共有化を兼ねる。(たゞし著作權がどこで相手を規制するかという界限は分らないので私に誰かがものを言う必要がある場合でもあるかと思う)・その時のコピーを紛失して十年経った2018.08.21.に該册を入手し続きを打鍵した(08.22.)。
天理大学図書館《ビブリア》75(1980)418〜425
BIBLIA
Bulletin of Tenri Central Library
──────────────
No.75−Oct.1980
──────────────
Special Volume in Commemoration of the 50th Anniversary of Tenri Central Library
Setsumon Teninfu and Richū's Setsuin (Chinese dictionaries) T. Ogawa (418)

説文篆韻譜と李舟切韻

小川環樹

 天理図書館に珍蔵されている徐鉉の『説文解字篆韻譜』 五巻は「丙辰菖節守善堂刊」の刊記があって、元の延祐三 年(西暦一三一六年)の刊行と推定される。伝存する刊本の うちで最も古く、貴重な書であるが、この書の内容に、中 国文字学の重要な資料を含んでいることに大きな価値があ る。その問題点について論じようと思う、
 かつて神田喜一郎博士が述べられたように、この『説文解 字篆韻譜』(以下『韻譜』と略称する)は、後漢の許慎の 『説文解字』(以下『説文』と略称する)の収める篆文を韻に よって分類排列し、検索を便にした書で、『説文』の索引と 言ってもよい。各の篆文の下には、その字音を示す反切が 記され(ただし反切は同音の字のグループ──小韻──の 最初のみにある)、また各の字の訓詁もしるされる(それ は『説文』の原文よりはずっと簡略になっているが)。そ の篆文の字形と訓詁は『説文』の本文と少しく異なる場合 があって、『説文』の校訂に役だつ。清朝の説文学者は、お もにその点で、この『韻譜』を利用した。また字音をあら わす反切は、音韻史の材料となるものである。
 『韻譜』自身のテクストには五巻本と十巻本、二つの系 統がある。王国維氏の考証によれば、十巻本がもとで、徐 (九二〇―九七四)が編集した初稿であり、五巻本はその 兄徐鉉(九一七―九九二)が初稿を増補改訂して成ったもの であった。そして二つの本は韻のわけかたとその順序―― 韻目――を異にする。十巻本の韻目は陸法言の『切韻』以 来の唐代の多くの韻書の順序に従っているのに対して、五 巻本の韻目は宋代の『広韻』(一〇〇八初刊)に一致するが、 実は唐の李舟が増補した『切韻』に依ったものであった。 ゆえに王氏に従えば、今日もはや伝わらない『李舟切韻』 の韻目とその内容とは、この五巻本『韻譜』によって明ら かに知られることになる。
 以上、神田博士の所説を要約して述べたが、博士の本ず かれた王国維氏の考証について、私は少しく疑いをもつ。 それは後に述べることとして、『李舟切韻』の著者がいかな る人であったかを先に一言しておこう。李舟の一生につい ても王氏の説がある(「李舟切韻考」『観堂集林』巻八)。その 大要の紹介から始める。
 王氏は言う。「李舟の名は、しばしば唐人の説部に見ゆ。 而れども『新旧唐書』には伝なし。『新唐書』宰相世系表 に、姑臧房の李承が九世の孫、舟あざなは公受、虔州刺史、 隴西縣男という。案ずるに承が六世の孫義は高宗に相た り、八世の孫揆は粛宗に相たれば、則ち其の九世の孫舟は、 おのずから当に孫の後に在るべし」。孫が『唐韻』を 著わしたのは天宝元年(七四二)であったから、李舟『切 韻』はそれより後の作ということになる。王氏は『旧唐 書』梁従義伝に「建中元年(七八〇)金部員外郎李舟、荊襄 に奉使す」とあるのは「当に則ち其の人なるべし」と言い、 さらに杜甫の「李校書を送る二十六韻」の詩に「李舟 名 父の子、……一九、校書を授けられ、二十 声輝赫たり、 ……乾元二年の春、万姓 始めて宅に安んず。舟也 綵衣 を衣て、我に告ぐ 遠く適かんと欲すと」などとあるのを 引く。王氏はこの詩によって、乾元二年(七五九)に李舟は 二十歳そこそこであったから、彼の切韻はそれ以後、 代宗・徳宗の世(七六二以後)に作られたであろうと推測し た。
 王氏の説は、王氏が引かなかった二三の資料によって補 足することができる(それらはみな清の労格の『カ官石柱 題名考』巻四に挙げられている)。李舟の略伝を記したも のに梁粛(七五三―七九三)が撰した「処州刺史李公墓誌 銘」がある(『文苑英華』巻九五一および『全唐文』巻五二一)。 文中に「諱某」としか言わないが、「字は公受」とあるから、 これが李舟の墓誌銘であることは疑いない。さきに引いた 「宰相世系表」(『新唐書』巻七二上)に李舟あざなは公受と 明記されていた。ただ「世系表」では李舟の最終の官位を ()州刺史とするのに、墓誌銘では()州刺史とするのが相違 するが、()州のほうがたぶん正しい。墓誌銘が記するその 大父(祖父)と烈考(父)の官職も、世系表に記する李舟の 祖父乾昇と父岑の官名に一致する。
 墓誌銘は「享年四十有八」と言うだけで、死んだ年日を しるさないが、李舟の生卒の年を推知するには手がかりが 二つある。一つはすでに王国維氏の引く杜甫の「李校書を 送る」詩であり、もう一つは李舟が友人斉映に与えた書簡 である。前者によって、乾元二年(七五九)には李舟は数え どし二十歳であったことがわかるから、彼の生まれたのは 開元二十八年(七四〇)ごろと知られる。
 後者は「斉相国に与うる書」として『全唐文』巻四四三 に収められたが、もともと王定保の『唐言』巻四に見え る。そして王定保の記した所から、右の書簡は宰相であっ た斉映が州刺史に左遷された後に、李舟が彼に寄せたも のであることがわかる。斉映が左遷されたのは貞元三年 (七八七)であったことは史書(新旧唐書の徳宗本紀および『資 治通鑑』巻二三二)に明らかである。従って李舟の死はこの 年以後でなければならないが、もしその年に死んだとすれ ば、彼の生まれたのは七四〇年(開元二十八年)となり、さ きほどの推定に合する。
李舟の一生を要約して述べたものに次の文がある。「李 舟は隴西の人なり。文学ありて俊弁し、志気を高うす。尚 書郎を以て危疑反側に使いする者ふたたびし、命を辱か しめず、その道 大いに顕わる。讒妬せられ、出でて刺命 と為り、廢痼せられて卒す」(柳宗元の「先君石表陰先友紀」 『柳河東集』巻十二に見える)。彼は口才俊弁、つまり弁舌に すぐれていたのである。そしてこの記に「文学あり」と言 い、前の杜甫の詩にその文名が高かったことを言うのから 見て、李舟は詩を作ったに違いないと想われるのだが、彼 の作った詩は一首も伝わらない。ただ散文の作品は七篇を 存する(『全唐文』巻四四三)。そのほかに佚文の断片がいくつ かあって、その一つは「能大師伝」である(宋の姚寛の『西 渓叢語』巻上に引く)。能大師は禅宗で(南宗の)六祖と称せ られる慧能(六三八―七一三)のことである。たぶん彼は南 宗禅に深く心を寄せていたと想われる(黒川洋一氏の「杜甫 の仏教的側面」『日本中国学会報』第二一集を参看されたい)。そ して仏教の僧侶との交わりも深かったであろう。
 仏教の僧侶には中国の音韵学に詳しかった人が少なくな い。『李舟切韻』の著述には、或いは仏僧の學問の影響が あるかも知れない。唐代には『切韻』を増補改訂した書が いくつも作られ、日本に伝えられたもの(『日本国見在書目 録』に著録されたもの)だけで十五家以上を数えるが、その 中に「釈弘演の撰」十巻と「沙門清Kの撰」五巻とがあっ た。『李舟切韻』はそれらの書と関係がありはしないかと 私は想像する。
 ところで李舟が『切韻』を著わしたことは、実は彼の墓 志銘には記されていないだけではなく、唐代の文献には見 えない。王国維氏も「その書 唐の時には顕われず、宋初 に至って始めて重んぜらる」と言った。開元九年(七二一) に作られた唐の宮中の蔵書目録『群書四部録』をもとにし た『旧唐書』経籍志にその名がないのは当然だが、我が国 の昌泰元年(八九八)に卒した藤原佐世の『日本国見在書目 録』には『切韻』と題する書を多く載せ、已に言ったよう におよそ十六家の著述を録するのに、独りこの『李舟切 韻』のみは、その名が見えない。この書を著録するのは宋の 欧陽修(一〇〇七―一〇七二)が編した『新唐書』芸文志 に始まる。その経部小学類において「李舟切韻十巻」と記 された。欧陽修は宋の宮中の蔵書目録『崇文総目』編集 者の一人だから、彼はたぶんその『総目』によって録した であろう。
 北宋時代にはこの書を知っていた学者が多い。この書を 引用するのは徐の『説文繋伝』に始まり、彼の兄の徐鉉 は『説文』を校訂したとき、二か処でこれを引くし、彼の 『韻譜』後序によると、『韻譜』を増補したとき、おもに参 考したのはこの書であった。丁度らが編集し景祐四年(一 〇三七)刊行した韻書『集韻』に「李舟説」として引用す る処が九か処あるが、やはりこの書をさす。そして宋庠 (九九八―一〇六六)の『国語補音』には『集韻』から転引 した「李舟説」を除き、「李舟切韻」または「李舟韻」を引 く者は八か処を数える。
 宋庠以後の学者がこの書を引いた例は私はまだ見出だす ことができないが、南宋末年の鄭樵(一一〇二―一一六〇) はこの書の性格について注目すべき発言をした。彼の「書 に亡わると名づくれども実は亡びざる有るの論(書有名亡 実不亡論)」に言う、「李舟の『切韻』は、乃ち『説文』に 取りて声を分ち、天宝の『切韻』(恐らく孫の『唐韻』のこ とであろう――小川)は、『開元文字』(唐の玄宗の撰という字 書『開元文字音義』をさす――小川)に即いて韻を為せり」 (『通志』巻七一、校讎略)。つまり『李舟切韻』は『説文』 に見える字のほとんど全部を収めていたのであって、それ がこの書の大きな特色であった。して見れば、徐と徐鉉 が『説文』を校訂し注解したとき、この書を参考したのは 当然だと言わねばならない。
 徐鉉は『説文韻譜』の序文二篇を書いた(『徐公文集』巻 二三)。前序には年月をしるさないで、ただ弟の徐に命じ 「叔重の記する所を取り、『切韻』を以って之を次す」と言 うのみである。後序では、『韻譜』が成ったのちも校補を加 えていたが、『説文』を校定せよとの勅命をうけるにおよん で、諸儒とともにくわしく研覈を加えるうち、「又た李舟の 著わす所の『切韻』を得て、殊に補益あり」と言い、『説 文』に漏れた字を補うにあたっても、「疑わしき者は則ち李 氏の『切韻』を以って正と為す、殆んど遺す無からん」と 言った。末に雍熙四年(九八七)の日付がある。前序は十巻 本と五巻本いずれも巻頭に載せるが、後序はどちらも載せ ない。なお十巻本の前序の末に「五音凡()巻」とあるのは 『徐公文集』に収めた文に合する。五巻本で、この十巻を ()巻に改めているのは、甚だ疑うべきである。
 五巻本は元代刊本以後、明代にその復刻があり、清朝で は四庫全書にも収められ、特に李調元が叢書『函海』に収 めて刻した本が広く行われた。十巻本は宋代に刊行された らしいが、長く写本で伝わっていたのを、清の同治六年 (一八六七)馮桂芬が復刻し、始めて世に知られるようにな った。馮氏はその十巻本(以下、馮本と称する)が通行の五 巻本(李調元刊本以下、李本と称する)に比べて、収める字が 少いことと、その韻目に大きな違いがあることに着目し、 五巻本(李本)は徐鉉が徐の初稿を増補するときに『李舟 切韻』を参考し、その韻目に従って改編したものであり、 十巻本(馮本)は徐の初稿であって、徐鉉の前序にいう 「『切韻』を以って之を次す」とは陸法言の『切韻』をさし、 馮本の韻目は即ち陸氏『切韻』の順序そのままであったと 考えた(馮氏刊本の序)。さきに述べた王国維氏の考証は、 この馮本の説に本ずき、その後に発見された孫『唐韻』の残卷(光緒三十四年一九〇八影印)の知見を加え、さらに五巻本の韻目の順序が『広韻』と一致することから、『広韻』が『李舟切韻』に従ったものと考えたのであった。
 しかし馮氏と王氏の論証は、徐鉉が徐の死より十二年 たって『説文』を校定し始めた雍熙三年(九八三)以後にな って始めて『李舟切韻』を見ることができたとの前提の上に立っている。少なくとも徐は李舟の書を見なかったと 仮定しなければならない。しかるに已に言った如く、徐 の生前の作である『説文繋伝』にはすでに『李舟切韻』を引いた処がある。すると馮氏と王氏の考えは根拠を失うこ とになる。私が両氏の説に疑いをいだく理由の一つはこれ である。
 そればかりではない。さきに注意したごとく『李舟切 韻』は北宋の書目によれば十巻であった。もしも『韻譜』 が韻目において李舟の書に従ったのならば、その『韻譜』 も十巻に分れているほうが自然ではなかろうか。さきにも 言った『日本国見在書目録』に著録された『切韻』の増補 本十五家の書のうち、釈弘演の撰という一家だけが十巻で ほかの一四家はみな五巻であった。馮氏と王氏が李舟以外 の或る人の『切韻』によって作られたとする宋の夏竦の 『古文四声韻』も五巻であった。
 右の二つの点から考え、次のように推論すべきである。 徐が初稿を作り、徐鉉が増補を加えた『韻譜』は十巻で あった。馮本はそのもとの姿をそのままに存する。そのの ち何人かがその韻目を改め、宋代に行なわれた『広韻』に 合わせて、検索をいっそう便にしたのが五巻本である。
私の推論の佐証となるべきことが、もう一つある。十巻本 (馮本)と五巻本(李本)を比校するに、後者に増加字が多い。 そして馮本に収める字の中には『広韻』に見えない字があ るが、五巻本の増加字はすべて『広韻』に見えるものばか りである。試みに魚部九(馮本も李本も巻一にある)を取って みよう。馮本の収める九〇字(重文を除く)のうち、『広韻』 に見えない字が一〇字ある。李本の増加字一一字はすべて 『広韻』に見える。しかもその増加字のうち七字は清の王 の考証(『説文韵譜校』一八三三年刊行)によると、『説文』 には載っていなかった字である。かように『説文』未収の 字で『韻譜』にはいっている字を王は「羨字」とよぶ。 『韻譜校』で私が一覧し調べた所では、その「羨字」はす べて『広韻』に見える字であった。五巻本『韻譜』を改編 した人は、十巻本に漏れた字を補うべく、まず『広韻』の 中から字を捜したのだろうと想われる。つまり五巻本の編 者のおもな参考書は『広韻』であったのである。とすれば 韻目も『広韻』に合わせたのは当然であった。
 十巻本の韻わけは目録によれば一八四部であるが、平声 で一部、上声で六部、去声で一〇部、入声で二部が、それ ぞれすぐ前の部に附属しているので、それらを加えると、 四声の韻の総計は二〇三韻となる。それは陸法言の『切 韻』の原本が一九三韻と推定される(王仁の『切韻』全本 では一九五韻ある)のよりは多く、韻の分けかたがより細か くなっているのだが、孫の『唐韻』が二〇五韻と推定さ れたのに比すれば、まだ少ない。現在までに知られている 『切韻』系の韻書諸本のどれも、この十巻本『韻譜』の 韻目は同じくはないのである。とすれば、その韻目が実は 『李舟切韻』そのままであると考えてよいであろう。五巻 本は『広韻』に韻の順序を合わせたほか、十巻本の部が分 かれていないものは、おおむね『広韻』に合わせて分けた から、二〇五韻となった。『広韻』の部の総計二〇六韻よ り一韻少ないのは、平聲の最後の韻である凡部(下平第三 十)を独立させず、前の厳部の中に入ったままにしてある ためである。小さな出入はほかにもあり、また各の部の名 が『広韻』と異なる場合があるが、それらはみな十巻本の 名称を用いたにすぎない。『韻譜』二本の韻目の排列のち
韻譜二本部次先後表(下平声)
広韻 切三a 王仁b 十巻韻譜c 五巻韻譜d
10 陽
11 唐
12 庚
13 耕
14 清
15 青
16 蒸
17 登
18 尤
19 侯
20 幽
21 侵
22 覃
23 談
24 塩
25 添
26 咸
27 銜
28 嚴
29 凡
   十一
   十二
   十三
   十四
   十五
   十六
23 
24 
   十七
   十八
   十九
   二十
 9 
10 
   二一
   二二
25 
26 
27 
28 
    37
    38
    39
    40
    41
    42
49
50
    43
    44
    45
    46
35
36
    47
    48
51
52
53
54
    13
    14
    15
    16
    17
    18
 25
 26
    19
    20
    21
    22
11
12
    23
沾  24
27
28
29
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a. 唐写本切韻残巻之三(辛酉1921王国維写印本)
b. (故宮全本)唐寫本王仁刊謬補缺切韻(1946重印本)
c. 説文解字篆韻譜十巻(同治六年1867呉県馮氏縮刊本)
d.        五巻(函海所収本)
がいとその『広韻』との異同については、別表に下平声の 大部分を表示したのを見ていただきたい。要するに、五巻 本の改めたところは、すべて『広韻』に従ったものであっ た。
 『韻譜』は徐鉉の後序に陳文という人が「摸印」した と言っているから、宋初すでに刊本があったらしいが、そ れは十巻であったと想われる。南宋の李(一一一五―一一 八四)は『説文』の原本を改編して『説文五音韻譜』十二 巻を作ったが、その序において、「いま『韻譜』(徐の著を さす)或いはこれを学官に刻す」と言い、その刊本を見た ことを記する。そして『広韻』のあとで『集韻』が編せら れたことを述べ、「『集韻』の部敍、或いは『広韻』と同じ からず、の『韻譜』を治むる尚お之に因れり」と言った。 この文章のつづきぐあいから見て、「之」とは『広韻』をさ す。しからば李が見た刊本『韻譜』の韻目の順序は『広 韻』と同じであったわけで、たぶん五巻本であり、それは 十二世紀には刊行されていたことになる。五巻本(元刊本・ 李本)の巻頭にある徐鉉の序(前序)の中に「君子 之を() しむ」の句があるが、その謹の字を十巻本(馮本)は()に作 り、『徐公文集』も()と書いてある。これは南宋の孝宗皇帝 の諱を避けて()に改められたのであろう。元刊本は、すな わち南宋刊本を復刻したものであろうと思われる。
 上述の如く、五巻本は徐鉉よりのちの人が増加した字が あり、その点ではやや杜撰なところがあるけれども、いっ ぽう十巻本は長く写本で伝わっていたためか、誤脱が少な くない。その誤脱は五巻本を以って補正しなければならな い。そして通行の『函海』本は誤字が多いが、それらはこ の元刊本によって正されるであろう。そこから言えば、こ の天理図書館所蔵の元刊本は依然として高い価値を失わな いのである。
                 ★京都大学名誉教授

このファイルは、 學生時代の番號付きノート紙の
〈01736〉至〈01743〉(頁次順)と、
〈01744〉至〈01746〉(五十音順)と から、内容を冩し、
手直しして、 ことわり書きを添えたものです。
2001.07.07.伊藤祥司

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