影印欽定四庫全書 研北雑志 卷下 二十九
b5-b8.




宇文廷臣文孫家有呉彩鸞玉篇鈔.
今世所見者唐韻 耳.
其書一先為廿三先,為廿四仙.不可曉.
又導江迎 祥寺,有彩鸞書佛本行經六十卷.
或者,以為特唐經 生書也.

ウブンテイng シン ブンソン いへにゴサイyランのゴクkヘンセウwをイウwす。
キムmセみるところのものはタウngヰンのみ。
そのショ、イッtセンはニジフpサンmセンたり、{ニセンは}ニジフpシセンたり。
さとるべからず。
また、ダウwカウngのゲイngシャウngジに、
サイyラン ショ ブッtポンギャウngキャウng リクkジッpクヮンあり。
あるものは、もって だたタウngのケイngセイngのショなるのみ となす。
「二十三先」、「二十四僊」、「不可曉」。
この傳述はどこからどのように傳えられてきた言い方か、 この言い方を引く記述は、結構ある。
しかし、“〜爲〜”近辺の謂に多少 傳承の不足か混亂があるように思われる。
傳承されるときの言葉の印象から幾つかいうと、
まづ主な意味以外(?)からは、 三四・先僊という對の進み具合とそのイメージが、 「不可曉」という結語を意味深にしていて、 傳述に或る種の趣味を釀していることは、否めない。
そこには、 「卷きの繼ぎ目になる所は、 擦れて解らなくなりかかっている部分が有り、 見た者はそれが居た堪れなく殘念である」 らしいことが、窺える。
一方、 平聲下卷が二十三から ということ自体が不思議を釀しているかもしれないが、 それは寧ろ、呉彩鸞書という“箔”でもって、 “應有の流の一種として云うかもしれない”、 と、思う人が決して居なくは無かったかもしれない。
つまり、そこまで見込んでの言い回しが 下地に有ったのかもしれないのであるが、
それならば、數字の道理が知りたいならば、 ちょっと平聲上卷を捲って見ておけば良かったのに、 とは“誰でも思”ってしまう。 ここまでで、普通、 煙の向こうに先僊が不可曉になる氣分だが、 以下に、私が思いついた別の筋だてを、書いておく。

實見者の謂に基づきながら、 平聲上下の繼ぎ目の數え だけを「不可曉」とするのは、 變だなと思えるし、
「不可曉」が、もし、そういう意味ならば、 別に平聲上卷だけ數えて説を云えばいいのにと思う。
そこで、これは “韻次の番號は常識の數で、韻書の内容は 「そこだけは“古びて讀み難かった”」” という風な傳聞であって、 その中に更に獨特な數え方の風貌が 傳えられてあったのではないか、 とも考える。
二十三先・二十四僊という番號にするには
廣韻が上下卷を分けて數えるのを合わせる→a28+b29。→通57→第29:30。
→平聲下が六つ多いことになる。
まづ、廣韻が分けた兩組の「開・合」 を合わせる。→第27:28。
ここまでを前提として、四つまだ多いことになる。
そこで、
見かけの「開:合」()一組を除く兩組の 切韻での「開:合」兩組()を それぞれ合わせる。
重紐三等()附屬の韻を除く兩組の 二等韻()を それぞれ合わせる。
このように考えると、 丁度「二十三先」と數えることができ、
如上の解釋が、一應成り立つ。
また、別の數え方としては、 見かけの開合ととをあわせて、 二等韻兩組(或いは開合兩組、どちらか)への考えを 外す、という推理も出來る。
(※上記の各組は、おのおの全て、互いに隣接している。)
なお、韻目の數えは書冩の確認を兼ねた朱筆な筈と思われる。
かなり綺麗に書いた纏まりのある書冩でも、 「開:合」や二等韻の各對の後者は、 纏まりの改行をしない韻目であった場合が考えられる。
それは、考え(理解)の纏まりとして、 對が括られてしまうからでもある。
その時には、改行だけに數を振ってもかなりの出來といえる。
また、如上のように不改行箇所の整った書冩の本を、 更に一色で冩した場合に、 不改行な韻の“數え”だけ(?)が數傳のうちには拔けてしまった、 という可能性も考えられる。
とにかく、
原本が朱墨兩色であったろうと思われるのに加えて、 當時の書冩方式が、朱筆を 確認の意味を込めてあとから振っていく順序なので、 モト文へのサービス(注釋や印し)や訂正という色あい が、作業自体に色濃い。
それに、“切韻原本”には 番號は振っていなかった、とも考えられている。
逆に、今殘る王韻冩本にある“韻目下注”は、 原本の推敲や制作の過程とめやすと を識す原注(の一部)ではなかったか、 といわれるに至ったし、 その現存全本はまた、まさに呉彩鸞の書と傳えられている。
朱墨の箇所は、たとえば、
韻目の番號・ 目録の反切・ 紐首の小點(あるいは小圈)・ 紐内字數・ 訂正など。
また、
「韻首の孤立」なる紐群も、 もとは朱筆だった時期があるのかもしれないし、
先行五書剪貼のような繼ぎ目の印しなども、 もとは附いていたのかもしれない。
というのも、唐代まで五つの韻書は存在していて、 故に、本當は、そのほうが理解には便利である。 「“だから”唐韻までは、紐序が繼承されていたのだ」、 とも言える。宋韻が切韻を大切にする頃には、 どうも五書との關聯というより五書そのもの の所在が竟に不明となり、 そこで、眞諄・寒桓・歌戈を分けた、 つまり韻目内部の紐序も、そこでは崩れた、 と考えられる。
※近世の例えでは、顧炎武『音學五書』内の 「詩本音」の換韻箇所などにある鍵括弧、など、 丁寧で正確な原本での印しが のちに傳わりにくいということの事例がある。
(參:頼惟勤監修・説文會編『説文入門』)

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